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今こそ、正しい心理学を

今から伝えたいことは、政治とか社会といった分野のこと。

そういった分野において心理学は一見お門違いのように思われるかもしれないが、当の本人は至って真剣です。

 

 

 現在日本の政治は、左派系が壊滅的な状況にあり、安倍政権はますます勢いを増している。そのせいか、安倍さんの思想や考え方と共に歩む背後のチカラについて、いろいろなところで議論が白熱している。

 そのような議論を読んではみるのだが、結局話しは第二次大戦だソ連だなんだというところに帰結してしまい、私にはさっぱり分からなくなる。

がしかし、右だ左だという議論を観察しまた、私なりに日頃の国政での右派左派を観察した上で整理できたことがいくつかある。

 

 私たちの思考(自我でもいい)というものには、時間は存在しない。思考が考え、議論する“時間”に関する事柄は、あくまでも歴史の知識のようなものだ。

 時間は生命体そのものにしか流れていない。成長し衰退し、次の遺伝子に引き継いでいくという時間軸が存在するからだ。

 左派と呼ばれる方々は、多くがその思考の海に溺れ、そこに泳ぐ自分自身という存在自体を省みない。右派と呼ばれる方々の多くは、思考がはじき出した正しい(と思われる)答えのようなものを、それ単体の価値としては扱わず、多くの場合、それに付随する人々や経緯、あるべき姿などを織り交ぜる。

左派にとって、そのような姿勢は一見思考(つまりは合理性)を受け入れないバカな行動のように映る。

一方、右派にとって思考が産み出したものが全てであるかのような左派的選択(行動)は、血が通っていないのではないか?という風に受け取れる。ケースによって“お花畑”と呼ばれるような、空想の世界でも語るかのように受け取れる考えも左派的要素が強い人にとって見れば、きっと真剣に考えた上なのだろう。

 

 思考は常に、左右対称の価値観を産み出すことによって点から線を作り出して可視化(認識化)させ、常に二択を繰り返していく。0と1で全てを産み出すことが可能なデジタル世界と一緒だ。

 左派と呼ばれる方々の中には、そのように作り出された正しい価値観(のようなもの)を実現するためならば、以前主張してたようなことを平気でひっくり返してでも、現在目指していくべき目的(正しい価値観(のようなもの))にまっすぐ向かっていく人が少なくない。そして、自身が以前真逆のことを主張していたことに対し、一向に構わない。

自身の存在というもの、それ自体が価値を持ち、意味を持つということをまったく自覚していない。

思考(自我)の世界が全てであるならば、その入れ物である体や存在それ自体に意味があるはずがなく、そのように考えれば至って自然ではある。

 

 但し、右派と呼ばれる発想であっても、当然ながら物事の取捨選択は常に繰り返される。思考しないわけなどない。合理性を備えていることこそが、どうぶつと人間を別ける要の部分だ。

 

 

 話しが間延びして焦点が合わなくなるので、ここで一旦結論のようなものを提示する。

 

左派というのは、時間と言う縦軸よりも思考という横軸で物事を捉える姿勢だ。

右派というのは、思考という横軸が時間という縦軸との繋がりなしに存在し得ない形で物事を捉える姿勢だ。

時間は固体そのもの(存在自体)にしかなく、思考には時間が存在しない。そもそも思考(自我)は実存していないので、これは当たり前のこと。

 

 Aさんは自分の考えに従ってある行動を起こした。Bさんはそんなことまったく考えてもいなかったが、Aさんの起こした行動の結果によって、ある影響を受けた。

 Aさんは自身の考えを実行したに過ぎないが、Bさんはそれを考えてもいなかったので、Bさんにとってこの事象に関わる前後は、Aさんという存在そのものに係る事象ということになる。

Bさんにとってそれは現実が動いたという事実が降りかかったことになるので、それは時間となる。

 

 このような部分を発達心理学的な側面から考えていく。

 まず、自身の思考(自我)も、自身の存在自体も自分だと認識を一致させることが出来ることを自我同一性(アイデンティティの確立)と言う。自分を内側から見た自分と自分を外側から見た自分、その双方を自分として一致させるということだ。

つまりは、箱の中身も箱そのものも自分であるということ。

箱の中身は指輪なんだよ!と思ったところで、外から見てそうは見られない、それほどの価値を感じられないというならば、第三者的に見ればどちらも実存していると言わざるを得ないし、どちらも同じ箱だといわざるを得ない。

 常に価値観を持ち、目的を持ってそれを目指していくとき、その過程は果たして価値があるだろうか。本当に“常に”であるならば、過程などなくてもいいことになる。

ところが現実は、それ以外のいろいろと面倒なことが邪魔をする。それでもその自身が歩んできた道のり自体を肯定できるならば、そこには時間が存在していたことになる。つまりは思い出とか関わりのようなもの。

 人間が生きることそれ自体が難しくなくなるにつれ、生きることへの渇望は弱まっていく。危険(リスク)が無くなるにつれ、次代へ繋ぐ欲求が弱まっていく。そうして社会が成熟していくにつれ、人間は相対的に自我(思考)が肥大化し、生命体そのものに係る用件が縮小していく。

つまり、社会が成熟していくにつれ、何もしなくとも社会は左傾化していく。

思考(自我)の出発点も中断するチカラも自我の外側が引き起こしていることなのに、自我自身はそれに気付くことができない。

 

 現在の議論が第二次大戦の前後を基点にして発想する限り、右傾化している、いや十分に左翼的だなどと言ったところでもはや答えなど出せない時代になってきている。

 

 ユング的な似非心理学を源流とする心理学ではなく、フロイト的な真の心理学が必要とされる時代が来ている。