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差別について

今朝は朝食を取りながら、テレビを見ていた。

8時過ぎのニュース番組での冒頭、中国のCMの話題が取り上げられていた。

洗濯機で黒人を洗うと中国人に変わる。というやつ。

 

それに対し出演者は、中国人はこれを何とも思わないのか、おぞましい・・ といったような気配と対応で話題は移っていたんだが、私がその場で受けた印象としては、むしろ出演者のその感じをおぞましいと感じた。

あまりに不愉快だったので、朝食は途中だったのだがテレビは消した。

 

CM製作側は「中国ではそのように捉える人はいない。海外の過剰反応だ。」といったような回答をしていたと記憶している。

であれば何故、それを外国の人間が非難するのだろう。

それを当たり前だと思って生きている人々に対し、何故、そう下等民族であるかのようにわざわざ拾ってくるのか。

※もちろん分かっていますよ、中国人はそういう人種で、問題があるという意図でやっているんだろう。だから製作者側の意見は正しい。

いや、実際には、中国でもそれを不快と感じていてもそうはいえない空気があるから言えないんだという人も少なからずいるのかもしれない。

だとしても、このような差別関連で盛り上がる報道を見るにつけ、いつも疑問に思うことがある。

 

そのような映像なり発言なりを見たり聞いたりして傷つく人もいるとして・・

では何故傷つくかもしれない人がいるものをせっせと拡散するのだろうか。

かつては、自民党員がよくそのようなことで攻撃を受け、謝罪をしている姿をテレビで頻繁に見ていた時期があったが、例えば「産む機会」の時に大いに疑問に感じたのは、自らその話題の元となるものに飛びついていって「傷ついた~」ってゆう人たち。

発言した当人はそんなつもりで言ってないとしても、傷つく人もいるからやめろ!という。

じゃあ・・・

何故それをわざわざ拡散するのか。

「産む機会」については、そのときのその場の人たちに対して発言している。日本全国不特定多数の人になど向けていない。

傷つくかもしれない人々に向けてわざわざ発信・拡散している人は誰なのだろう... と。

 

今回のCMも、当事者は、文化伝統慣習価値観のまったく異なる海外になど、発信していない。

世界ではそれを「差別」と呼んで、大変にさげすまれる行為らしいから・・ と諭すのならわかるが、私の受ける印象としては、それを以って一方的に非難する側の感覚にとても差別的なものを感じる。

 

 

陸続きのために人種が争い、奪い合い、または奴隷として輸入してきたりした過去があるために、人種がそのまま社会的地位に結びつく欧米とは違い、日本の場合はそれを差別とは捉えない。それは「差」を言っている。

「差」を認識し、正しく表に出してあげることは人間の健全な精神の成長に必要なことであり、それを全面的に否定するような発想とても危険だ。だから精神が発達段階の途中にある世代に対しては本当に気をつけなければならない。

 

世界の一流国から持ち込まれた平等だとか差別といった概念は、日本で一定の認知を得た。

しかし、大きく見落としている部分がある。

それは女性の発言力の向上と個人主義の拡大にある。

 

男性の場合は、一見否定的だと捉えられる言葉を発しても、それは否定的ではない場合が往々にしてある。「ブス」といってもそれは決して否定的な意味ではないことが良くあるんだ。

女性の場合、否定的な言葉は心に思っていても発しない、という大前提の習性を持っている。そのため否定的な言葉を発するということは即ち、否定的な意味となる。

通常はどれだけ相手をひどく思っていようとも、そうは言わないのが女性の道徳だ。だからそこをあえて否定的な言葉を発するということは、これはもはや攻撃をするために発しているようなものになる。

但し補足がある。ここでは男女で区別して話しているが、恐らく根本はそこだけが要因ではない。集団が集団としてより良くあり続けること、つまりはチームとしてより良くあり続けようとする習性や発想がある場合、チームとしてより機能するために、能力が劣っている人間がいたとしても、チーム内に必要とする役割が与えられる。

背が高いやつには高いなりの、低いやつには低いなりの、顔がブサイクならブサイクなりの、それぞれの居場所や役割が与えられるために、そのチーム内においては、皆が生きる(=居場所がある。存在が認められる)ことになる。

それはそれでひとつの大変魅力的な特性だろう。

長い間、日本では組織として機能させる役割の多くを、男が担ってきた。

だからチームとしての意識というか、そういった特性が出やすかったのが男性ということになる。

大阪のお笑いなんかを見ていても、つまんなかったりそのタレントの個性がなかなか発揮されない場面があったりする場合、あえてイジったりけなしたりしてでも、その相手がその場で生きるように持って行くことが多い。

否定的なことを言われていても、それでそいつは「生きる」わけだ。そして存在を認められる(=許される)。

 

個人の(勝手)自由や平等主義のようなものが蔓延すると、それらの特性は失われていくことになるだろう。

1+1=3になることがない社会。1+1=2にしかならない。個人では作れない、生み出せないものがあるから組織する。ところが個人はあくまでも1でしかなりえないから、人数分のものしか生み出せない。1と1は利害と契約のみで結ばれているに過ぎず、しまいには組織する意味すらなくなっていく。

より高度で優秀なものに発展していっているようにみえて、人間自らただのパーツに成り代わろうとしていっているようなものだ。

 

 

 

人と人とのコミュニケーション(即ち生きること全般)というのは、差を以って認知し、葛藤し、成長していく。

人間の精神の発達という部分から考える場合、「成長」とは常に「葛藤」と戦った後の副産物として獲得するものを差す。つまり、「葛藤」してないのに「成長」を獲得することは有り得ない。

いやおうなしに降りかかってくる新しい状況に対し、自分を適応させるために葛藤し、その状況を乗り越えて、成長していく。(自分を大切に扱い、常にそばにいる何か。自分と似たような姿だけど自分じゃない何か。自分という区別。等々)

それはつまり体の成長や社会環境に合わせて、自分の意思に関係なく、いやおうなしに訪れる。そしてそのたびに心は葛藤し、頭は認知し、乗り越えていく。乗り越えたという結果が生きていくというベクトル(自信のようなもの)を生み、それがまた自分を違う場所に運んでいくチカラになっていく。

 

 

人A→人B とコミュニケイトしたとき、残念ながら差別的な発言というのはこの“→”の部分に該当し、これは例え人Aから発せられたものであっても、社会的にはもうAの持ち物ではないと捉えるのがニュートラルな発想だ。

だから差別的な発言というのは、生きていくうえで配慮したほうが良い場合が多いという、知恵の一種なんだと捉えるのがニュートラルだろう。

ニュートラルというのはつまり、それほど正式に社会的価値を持つものとは言いづらいという意味。

 

 

このような私の捉え方の多くは、心理学分野から影響を受けているもので、残念ながら日本では心理学という学問が、学術的に正当な位置を獲得できていない。

社会の問題を解決する多くの具体的な手段を持っているのに、それが発揮される地位にない。

この学問の大きな特徴として、勉強ができればできるほど、理解しずらくなるという・・ 学問としてはある種致命的な部分がある。

心理学は、「自我」、というよりも分かりやすく「思考」と「心」と「体」のこの三者の関係性を科学する学問だ。

勉強が良くできる人はこの中の「思考」部分が大変優秀である人が多いために、「思考」を外側から観察することを苦手とする人が多い。

「思考」-「心」、「心」-「体」、「体」-「思考」の間、この“-”の部分を観察していかなければならない学問に対して、「思考」の機能が強い人は「思考」の内側からその外側をのぞき見るようにしか、それを実現できない人が多いんだ。

「思考」を最大の武器として、それを多くの場面で頼りに生きてきたような人間にとって、時に「思考」は万能とさえ思い始める。

 

コンピューターで表すと、思考というのはプログラムやデータでしかない。

CPU自体ではないし、HDD自体でもメモリ自体でもない。その構造物の中に入っているデータやプログラムでしかない。

つまり、全能感さえ抱くその「思考」というのは、その機械本体がないと存在すらできない。但し、機械本体もそれを動かすプログラムがないと動かない。さらに、それを活用する目的や意思(即ち、操作する人)がいないと意味がない。

A-B-CのAの中でもBの中でもCの中でもなく、それらをつなぐ“-”を科学する、それが心理学だ。

「心」が病んでいる場合、「心」の中を直そうとしても無理がある場合が多い。しかし「体」や「思考」を直すことによって「心」が治ることは少なくない。医学的な面で考える心理学もまた、「心」の中ではなく、多くは“-”を直すことという捉え方ができる。

 

 

最後に、私のこのような考え方に影響を与えた本を。

 

 

ライフサイクル、その完結

ライフサイクル、その完結

 

  

「平等」が人間の精神を破壊する―精神科医が分析する現代社会の病根!

「平等」が人間の精神を破壊する―精神科医が分析する現代社会の病根!

 

 

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

 

 

 最後に付け足し、というか余談。

 

この文面の中には、「ゆとり世代」の正体のようなものが表れている。

本来ゆとり世代というのは勉強をがっつりやるのではなく、ゆとりをもってやろうという部分を指すのかもしれないが、原因はそこにはないと分かる。

 

豊かさ、少子化、個人の自由、平等といった部分がそれを生み出している。

現代は、個人の差が否定され、仕舞には男女の差さえ否定され、形式的な競争しかなく、全てに根拠(理由)が求められ、「いやおうなしに降りかかってくる環境」がなくなっている。「思考」ばかりが発達し、「心」の発達は一切ケアされていない環境になっているということだ。

 

友情は良いことだ!   ・・・ではない。

親や教師の強権は失われ、差が否定されているために真の葛藤が起こらず、つまりは自然と結びついていく友情というものがなくなっていく。

チームワークはいいことだ!  ・・・ではない。

真剣な競争もなく(いいことだから競争する・・という発想になり)、本気で傷つくような結果をもたらしそうなものを遠ざけ、学歴競争もあまり意味を成さない社会になった。

学校の勉強は受験に役に立たない。なのに学校に行かなきゃならない。(この辺には、いじめの原因があるのかもしれない。)

 

 

上記「ライフサイクル、その完結」は、分野で言えば発達心理学に分類される。

エリクソンももはやその分野では古典なのかもしれないと.. 最新の発達心理学の本を読んだことがあった。

発達心理学は初等教育分野では必須なようで、そういった教員向けの本が多かったんだが、開いてみて驚いた。

 

その前にまず軽くエリクソンのライフサイクルに触れる。

 

子供は外の世界に生まれ出て、まずは葛藤する。というかわけが分からないし、認知もしていないに等しい。

その段階でまずは、そんな生まれ出た世界に対し、基本的に安心感を感じるか不信感を感じるかで性格の一部のようなものを獲得する。

基本的信頼か基本的不信か、どちらかの性格的なもの(精神構造)を獲得するわけだ。

 

この部分に対し、最新(当時、だから10年近く前か)の発達心理学テキストには、赤ちゃんはまず、基本的信頼ー基本的不信どちらかの性格を獲得する。だからなるべく“基本的信頼”を獲得できるように努めましょう。・・といったようなことが書いてあった。

 

発達心理学とは、そのような子育て教育とか道徳の本ではない。

いやおうなしに訪れる子供の葛藤の段階を知っておけ!というものだ。

つまり、テキストを作る側からして既に、頭で考える世界を心理学と呼んでいるレベルになってしまっていた。

 

その後は、お乳や排泄で泣いたり、ヨチヨチ歩きするようになったりしていくにしたがって、自分と自分以外を認識するようになったり、やっていいことと悪いことの区別がつくようになったり、体の成長に合わせて、精神や知能が発達していく。

動けるようになるから問題は発生し、親以外の人と接するようになるから問題は発生し、同じような姿かたちの人間と無理やり一緒にさせられるようになるから問題が発生し、その都度子供はその状況を自分の中で葛藤し吸収してその状況を乗り越えられるようになっていく。(新たな種類の感情を自分の中に置き場のようなものを設置できるようになっていく。)

新たに大切になってきたところに毛が生え始め、性を意識する段階に成長してくると、自然と異性に惹かれるような初めての感覚を覚える。そして当人の意思に関係なく、ちゃんと性交渉ができる体に発達していく。(細かい順番はさておき、ここでは自分の意思に関係なく、心と体の変化を認知できる段階を示した。)

 

 

確かに、良いしつけの目安になるのかもしれないが、それよりまず重要なことは、体の成長や社会環境の変化という当人の意思や考えによらず訪れてしまう要素が当人の健全な精神の発達に必要不可欠なんだということだ。

だから、それを遠ざけては精神が発達しないよ、ということ。

体の成長や思考の発達に、精神の発達が追いつかないということ。

 

その根本を理解しない多くの教育者向けテキストがあるということは、そういう部分の発達を、当人の頭で考えて納得させたうえでやらせようとする現実にとても合致する。

そのように現代は、自我(思考)の発達だけが進んでいるために、若者→大人への段階の目安となるはずの「アイデンティティの確立」というものの獲得が一層困難になってきているとはっきりと明記している専門家もいる。

 

つまり、「これだからゆとりは・・」と言われたところで、もう当人にはどうしようもないものだと理解しておかなければならない。

また、性同一性障害のようなケースが増えているのは、男女平等思想教育が行われてきたことと無縁とは言えないだろう。

 つまり、良い人柄を獲得せよ!・・ ではなくて、発達に必要な段階(葛藤)を妨げるな!ということ。