「時間は幻想」に対するシンプルな見解

自我について。

 

ウィキペディアで調べてみると、哲学的解釈と心理学的解釈があって、そして自然科学的な話しを優先すると、どおやら意識とか前意識とか、その辺のことであるようだ。

 

私は自我というもののちゃんとした定義についてあまり興味はないんだけれど、ざっくりと、考えたり感じたり悩んだり、要は自分が意識・認識できる限りの脳の活動全般を自我と呼んでおく。

 

私が興味を持っているのはあくまでも、「心と体と自我、この3つが互いに絡まり合いながら成り立っているのが人間」という、とてもざっくりとしたものについて。

 

 

当然ながら、「何故私は生きるんだろう」などと素敵なことを考え出すのは、ここで言うところの「自我」だ。

この思考の海のような世界はしかし、生きているだろうか?

生きているのはあくまでもそのボディだけであって、自我自体はそもそも生きてなどいない。

この自我自体が意思を以て考えを始めたり、考えを止めたりすることはほとんどなく、思考を進める出発点やゴールというのは多くの場合自分のボディや自分の外側から降りかかったものによって始められ、終了させられる。

きっと恐らく、自我自体は考え続けよう、感じ続けようとしたらそれを止めない、いや止められないに違いない。

意思のようなものの原動力は、自我の外にあるんだ。

 

つまり、自我というのはパソコンでいうところの0と1の羅列のようなものでしかなく、あくまでもその思考回路、計算回路がはじき出すその中身でしかない。CPUが脳の中心的な部位といったようなものだろう。

意思とか動機とかきっかけとか、そういったものというのはここにはないんだ。

 

自我が無ければ認識も出来ないし考えることもできない。

なのでそれはある意味では世界の全てだ。だがしかし、自我自体は生き物ではないんだ。

生きているのはボディだけ。それが生み出す信号や記号の羅列のようなものは全て、生きてはいない。生き物じゃないから。

 

 

にもかかわらずこの自我は、まるであたかも自分自身が生きているかのように考え始める。

そして仕舞には「どうして人は生きているんだろう」などと考え始める。

 

 

 

アインシュタインは「時間は幻想」とおっしゃったらしい。

このような件をネットで検索してみると、宗教的な話しかまたは、細胞的な話しがヒットする。

 

時間というのは、生命体にしか関係のない事項。

生まれて、育って、成熟して、命を引き継いで、育てて、そして衰えていくのは、それはあくまでもボディのほうだ。

だからこそ時間は存在する必要がある。

自我を動かすメカニズム(多くは脳)、それ自体もまた命があって、時間がある。

しかし、そこから生み出される記号の羅列(言葉等)は、それは生命体ではない。

 

自我には時間などない。ある命題を与えられさえすれば、考える源(栄養)や睡魔や集中力などの制約を受けない限り、エンドレスで言葉を羅列していく。

 

 

つまり、生きていると思っている自分を認知・認識している自我自身は、生き物じゃないから時間などないんだ。

 

私たちが何かを測る上で用いる、縦横高さと同じように、あくまでも形式的に仮定するモノサシの一つに過ぎないということになるんだと思う。

 

 

そして、人間の体には、休む時には休む時用の、活動する時には活動する時用の神経回路に切り替わるという、二つの神経回路が備わっているという話しも目にしたことがある。

自我は基本的にその力に抗えない。

自分自身が動き続けたくても限界があるんだ。

自我自身の外にある、何者かによる意思によってシャットダウンされてしまったらもう成すすべなどないと言うのに、自分自身(自我自身)が生きていると勘違いしてしまったりさえする。

自我は自我の外側にある何がしかの力に逆らいきれない。

その力の源泉のような存在を認めないわけにはいかないんだ。

 

 

ここ数回の話しは、ややこしかったり、専門的だったりしてるだろうか?

私としては、本当にシンプルに、ただ純粋にそのことを観察したそのままを言葉にしているに過ぎないと思っているんですけど。

 

そしてこのような事柄に対し、少なくない人はややこしく考えすぎているのではないか?と推測している。

 

 

しかし、ここまで随分と動物の一種としてだけ捉えてしまっているようにも思えるので、次は人間ならではの部分をもうちょっと掘り下げていきたいと思う。