人は何故生きるのか・・

そんな深刻なことを、結構多くの人が疑問に抱いている。

私の周りにもたくさん。

 

しかし私は幸いなのかそうでもないのか、そのようなことを真剣に考える程深刻な人間ではない。

感情の浮き沈みが穏やかであり、さらに、過ぎてしまったこと(もうどうにもしようもないもの)に対してはまったく興味を持たないような人間だ。

たったの今、すぐ目の前から常に前だけにしか興味を持てない。

つまりは「とても前向きな人間」ということなのだろう。

 

がしかし、私の周りの人間はそのようなことに真剣に向かい合い、いや特に女性に多く、さらにはそのような場合なにも答えなど用意する必要はないのだろうけど、その場所から脱出できない人が少なくない。

 

私はそのような場合、とにかく少しでも心に寄り添えるように耳を傾けているのだけれど、しかし、その本質的な部分がとても気になってしまうんだ。

と同時に、そのように感情に支配され、その荒波のような情動に身を任さられる人たちをとても魅力的に感じる。

悩みも悲しみも持たない私は、ある意味とても人間的な魅力に欠ける、つまらない人間のように思えてくるんだ。

 

悩んでいる当人には嫌味のようにしか聞えないであろうけれど、実際の本当に、そのように感じてしまう。

 

 

私のような超前向き人間にとって、「人は何故生きるのか」などと考えるのは、それは言い訳でしかない。

生きることに理由など必要がない状態である時間は、理由を必要とする時間よりも大概の場合長く、理由など必要ない時がある以上、理由が必要な場合、それは言い訳だということになる。

いや、そんなことは分かっているんだ!と反論されてしまうだろうけど、これは説教を始めるための第一弾などではなく、まずはただ純粋に現状を観察していく上での第一歩としての報告なんです。

 

そして第二歩目、ここで既に答えが出てしまう。

冷静に眺めてみるとき、人というのは生きているんじゃなくて、生かされている。

子供は親の意思や意図を持って生を受け、親の意思や力でこの世に産み落とされる。

その後子供は自身で生きる理由など自覚することなく、意識することなく当分の間を生きていく。

そうして自分自身というものを改めて考えてみる時期に差し掛かる頃には、多くの人はその環境や将来性、自身の特徴や時代における優劣など、あらかた定まってしまっている。

産み落とされた社会におけるその人の個性や有用性のようなもの、それはその社会においてその人の価値や意義に大きく係っている。

であるならば、当人自身が自己をどのように定義付けようと、当人自身の中だけで決まる筈がないということだ。

常に自分と関わりのある人々とのつながり方や存在する社会という仮想空間の持つ性質などから逃れることはできない。

それらがあって初めてその人自身の「何故」が見えてくる以上、当人が自己の中だけで答えを見出そうとするのは不可能だ。

 

 

人は生きているんじゃない、生かされているんだ。

 

 

 

このような大きい課題を先に提示し、これから先は、そこに至る根っこや枝葉のようなものを少しづつ拾い上げていきたい。

例えば、人間関係において「認める」とか「許す」とか、そういった認識はとても重要なものであること。

その辺もきっと、生かされている(生かし-生かされ合っている)ことと大いに関係しているんだと思う。