メモ

①成長

成長は葛藤の後についてくる副産物のようなもの。それ自体を主産物として求めようとしても不可能な・・ 副作用のようなもの。

なので成長それ自体を多く得たいとするのらば、主産物をいかに多く得られるかに励まなければならない、ということになる。

 

人は葛藤によって、新たな引き出しや感覚のようなものを知ることができる。

人間の精神的成長が常にそのような現象であることと同じようなもの。

たとえば、「痛い」とも違う「かゆい」とも違う・・ その中間にある新たな場所を見つけるということ。そういう感覚を知り、自分の中に新たな引き出しができる。

 

主産物それ自体を得たいと、それを得るためのアイテムや知識を得、実践していく場合、主産物は素直に増えていくだろう。その代わり、葛藤によってオリジナルの新たな生成物を生み出すとは限らず、主産物を多く得る(作る)ことが=で副産物を生み出すわけではない。あくまでも、主産物を多く得るために費やされた葛藤が多いかどうか、がそれに直結する。

 

②リスク

近年は、とても多くのことを理解し実践し、運動神経も鋭いにも関わらず、目の前の現実のすぐ先に起こるであろう事を予測できない人が増えている。

危険を察知したり、予測することができない。

人というのは恐らく、本能的な部分にかかるリスクに鍛えられてこそ、そのような部分を発達させることができるのだろう。

それゆえに、できうる限りのリスクを遠ざけて育てられた人間には、そのような能力が備わらない。

 

 

③手段

手段を選ぶ という発想がある。

ざっくりと、欧米では目的や結果・・ つまり手段を行使するその先のものに対する正当性によって手段の正当性が評価されるという発想の根底のようなものが存在する。

それに対し日本では、目的や結果の優劣によらず、手段自体に正当性を問うという考え方が存在する。

これがつまりは、武士道のようなものであろう。

思考や概念といった、時間軸を持たない横の拡がりのみで価値を計る自我(思考)が拡大していくにつれ、そのような発想の価値は増していく。

それ以外のも、慣習や伝統等時間軸を持った概念に価値を置く発想こそが、本来人間としてバランスのとれたものであったであろう。

人間は生き物である以上、その体には時間(命)が存在する。時間軸を否定する場合、それはつまり自我だけが必要だということで、自我それ自体を動かしている本体(物体)を否定するという、とても優れているようでその実とても愚かな存在であることになるからだ。

コンピューターであれば、それはまさにCPUでありメモリーであり、マザーボード

そこにOSという言語を活用することで始めて思考は走り出す。体がなければそもそも存在がない。走り始めた自我(思考)がどれだけ高等で素晴らしい発想を生み出そうとも、その存在(実存)自体をないがしろにしすることはできない。

 

 

 

「時間は幻想」に対するシンプルな見解

自我について。

 

ウィキペディアで調べてみると、哲学的解釈と心理学的解釈があって、そして自然科学的な話しを優先すると、どおやら意識とか前意識とか、その辺のことであるようだ。

 

私は自我というもののちゃんとした定義についてあまり興味はないんだけれど、ざっくりと、考えたり感じたり悩んだり、要は自分が意識・認識できる限りの脳の活動全般を自我と呼んでおく。

 

私が興味を持っているのはあくまでも、「心と体と自我、この3つが互いに絡まり合いながら成り立っているのが人間」という、とてもざっくりとしたものについて。

 

 

当然ながら、「何故私は生きるんだろう」などと素敵なことを考え出すのは、ここで言うところの「自我」だ。

この思考の海のような世界はしかし、生きているだろうか?

生きているのはあくまでもそのボディだけであって、自我自体はそもそも生きてなどいない。

この自我自体が意思を以て考えを始めたり、考えを止めたりすることはほとんどなく、思考を進める出発点やゴールというのは多くの場合自分のボディや自分の外側から降りかかったものによって始められ、終了させられる。

きっと恐らく、自我自体は考え続けよう、感じ続けようとしたらそれを止めない、いや止められないに違いない。

意思のようなものの原動力は、自我の外にあるんだ。

 

つまり、自我というのはパソコンでいうところの0と1の羅列のようなものでしかなく、あくまでもその思考回路、計算回路がはじき出すその中身でしかない。CPUが脳の中心的な部位といったようなものだろう。

意思とか動機とかきっかけとか、そういったものというのはここにはないんだ。

 

自我が無ければ認識も出来ないし考えることもできない。

なのでそれはある意味では世界の全てだ。だがしかし、自我自体は生き物ではないんだ。

生きているのはボディだけ。それが生み出す信号や記号の羅列のようなものは全て、生きてはいない。生き物じゃないから。

 

 

にもかかわらずこの自我は、まるであたかも自分自身が生きているかのように考え始める。

そして仕舞には「どうして人は生きているんだろう」などと考え始める。

 

 

 

アインシュタインは「時間は幻想」とおっしゃったらしい。

このような件をネットで検索してみると、宗教的な話しかまたは、細胞的な話しがヒットする。

 

時間というのは、生命体にしか関係のない事項。

生まれて、育って、成熟して、命を引き継いで、育てて、そして衰えていくのは、それはあくまでもボディのほうだ。

だからこそ時間は存在する必要がある。

自我を動かすメカニズム(多くは脳)、それ自体もまた命があって、時間がある。

しかし、そこから生み出される記号の羅列(言葉等)は、それは生命体ではない。

 

自我には時間などない。ある命題を与えられさえすれば、考える源(栄養)や睡魔や集中力などの制約を受けない限り、エンドレスで言葉を羅列していく。

 

 

つまり、生きていると思っている自分を認知・認識している自我自身は、生き物じゃないから時間などないんだ。

 

私たちが何かを測る上で用いる、縦横高さと同じように、あくまでも形式的に仮定するモノサシの一つに過ぎないということになるんだと思う。

 

 

そして、人間の体には、休む時には休む時用の、活動する時には活動する時用の神経回路に切り替わるという、二つの神経回路が備わっているという話しも目にしたことがある。

自我は基本的にその力に抗えない。

自分自身が動き続けたくても限界があるんだ。

自我自身の外にある、何者かによる意思によってシャットダウンされてしまったらもう成すすべなどないと言うのに、自分自身(自我自身)が生きていると勘違いしてしまったりさえする。

自我は自我の外側にある何がしかの力に逆らいきれない。

その力の源泉のような存在を認めないわけにはいかないんだ。

 

 

ここ数回の話しは、ややこしかったり、専門的だったりしてるだろうか?

私としては、本当にシンプルに、ただ純粋にそのことを観察したそのままを言葉にしているに過ぎないと思っているんですけど。

 

そしてこのような事柄に対し、少なくない人はややこしく考えすぎているのではないか?と推測している。

 

 

しかし、ここまで随分と動物の一種としてだけ捉えてしまっているようにも思えるので、次は人間ならではの部分をもうちょっと掘り下げていきたいと思う。

 

 

 

エリク・エリクソン

エリク・エリクソンは、人間の精神の発達には8つの段階があるというようなことを唱えた方。

 

私はこの方の「ライフサイクル、その完結」という本に偶然出会い、そしてとても衝撃を受けた。

この本に出会ったきっかけは、経済学科でも履修できる程度の心理学の講義でざっくりと記憶に残っていた程度の「アイデンティティの確立(自我同一性)」というもの、これに対する私の理解と、少なくない著名な方々のおっしゃる解釈にはどうも隔たりがあるんだよなぁと疑問に思ったことだった。

それでいっそちゃんと読んでみようかと思い立ち、検索して出てきたお名前の方の本を、近くの三省堂で物色して手に取った。

 

ウィキペディアでも出てくるように、この方の代表的な主張は「ライフサイクル論」というもの。

しかし私がこの本で何よりも衝撃を受けたのは、人間というのは心と体と自我の3つがセットになって発達していくという部分だった。

心理学などそれまでまともに勉強などしてこなかった私にとって、精神の発達が体の成長とともにあるという部分がとても新鮮だったんだ。

 

それまで私は漠然と疑問に思っていたことがあって、それは「男性ホルモンが強いと禿る」という話し。確か当時の仕事先で先輩がそのようなことを言っていたのがきっかけだった。

何故、男性ホルモンが強い人は禿げ、女性ホルモンが強いと禿ないのだろう。

ままざっくりと、人間というのは大事なところに毛が生える。それも必要な段階になると。

つまり、男性というのは歳を取ってくるともう脳(頭)など必要が無くなる、という事なのかもしれない。などと薄らと考えていたんだ。

 

そのような本当に漠然とした下らない話しと、このエリクソンが自分の中で一気に繋がり始めた。

 

そしてまた、このエリクソンの本で自分なりに拓けた部分があって、人間はそのポテンシャルというか、構造上というか、とにかく最初から社会性を帯びた生き物として生まれてくるという部分。

 

精神の発達は大まかに言うと、人間がその生活範囲というか、社会生活の範囲を拡げていくのに伴って、精神構造は発達していく。

ライフサイクル論でいうと、人間の精神構造はその対象がどんどん大きくなっていく。

最初は母親との関わりから、仕舞には世界や人類全般にまで拡がっていく。

 

要するに人間の精神構造の発達というのは、体の発達や社会環境の変化に合わせて社会性を獲得していくように発達していくということ。

精神の発達が、そんな体とか立場に不相応な状態であると、きっと人は何らかの支障をきたすのであろう。

 

一体何に感心してるのだろう?と思われるだろうか。

このような話しを「知識」としてではなく、漠然と自分というか、日常生活のレベルで考えるとき、普通は精神は精神、体は体、自我は自我、それぞれ別個で考えてしまいませんか?

これらは全て関係し合っているのであって、それぞれ別個には成立しないという点、それが何よりも感心させられた点なんです。

 

 

 

そして最近の免疫学というか、主に人間の神経面や免疫面において、どうやら人間というのはその生まれ出る環境とか状態で、その環境で生きて行けるような体の構造を獲得できるらしいという話しを目にした。

生まれ持った遺伝子だけではなく、生まれ出る環境で構造が変わるようにできている。

 

遺伝子は遺伝子として、各自が受け継いで生まれ持ってくる構造であるにせよ、生まれ出てからさらに、その環境なり状況なりのもとでちゃんと生きて行けるようなメカニズムまで備わっている。

 

人が動物を見るように、それと同じように、その生物の習性や環境、状況に合わせて、ちゃんと必要な物がメカニズムされているんだ。

 

難しいことなどないんだ。

人間だってちゃんと当たり前に、その他の生物と変わらないじゃないか。と思った。

ここまでは。

 

大きな違いはきっと自我の部分なのだろう。

その辺をこのあと掘り下げていきたいが、今日のところはとりあえず、冒頭で触れた「アイデンティティの確立」に関する認識の違いについてだけ触れておきたい。

 

少なくない著名な方々は、これをどうやら「大人として自分は何をやっていくべきか、を見つけること」といったような、あたかも性格とか精神の発達というものとは違う種類のもののように語る。

これはあくまでも精神の発達とか精神構造の獲得のような話しの中にあるにも関わらず、ここにきて急に人生論とか志のような話しになってしまう。

私が漠然と感じていたこの「アイデンティティの確立」というのは、「自分が思う自分と社会に存在する自分が、同じ自分として自分の中で一つになること」というようなものだ。

アイデンティティの確立」は日本語訳では「自我同一性」と言われるし、このほうがよっぽどしっくりくる。

 

そしてある学者さん(覚えていない)は「自我が肥大化している現代においては、アイデンティティの確立が一層困難になってきている」と書いていた。

どうやら、この学問においては、優秀な自我は決して望ましい能力とは言えないようだと理解した。

 

学術は学問ができる人ほど優秀、ごくごく凡人な私は、そのように認識してきたんだけれど、どうやらそうとも言えないのではないか?と思い始めた大きな出来事だった。

 

 

 

 

人は何故生きるのか・・

そんな深刻なことを、結構多くの人が疑問に抱いている。

私の周りにもたくさん。

 

しかし私は幸いなのかそうでもないのか、そのようなことを真剣に考える程深刻な人間ではない。

感情の浮き沈みが穏やかであり、さらに、過ぎてしまったこと(もうどうにもしようもないもの)に対してはまったく興味を持たないような人間だ。

たったの今、すぐ目の前から常に前だけにしか興味を持てない。

つまりは「とても前向きな人間」ということなのだろう。

 

がしかし、私の周りの人間はそのようなことに真剣に向かい合い、いや特に女性に多く、さらにはそのような場合なにも答えなど用意する必要はないのだろうけど、その場所から脱出できない人が少なくない。

 

私はそのような場合、とにかく少しでも心に寄り添えるように耳を傾けているのだけれど、しかし、その本質的な部分がとても気になってしまうんだ。

と同時に、そのように感情に支配され、その荒波のような情動に身を任さられる人たちをとても魅力的に感じる。

悩みも悲しみも持たない私は、ある意味とても人間的な魅力に欠ける、つまらない人間のように思えてくるんだ。

 

悩んでいる当人には嫌味のようにしか聞えないであろうけれど、実際の本当に、そのように感じてしまう。

 

 

私のような超前向き人間にとって、「人は何故生きるのか」などと考えるのは、それは言い訳でしかない。

生きることに理由など必要がない状態である時間は、理由を必要とする時間よりも大概の場合長く、理由など必要ない時がある以上、理由が必要な場合、それは言い訳だということになる。

いや、そんなことは分かっているんだ!と反論されてしまうだろうけど、これは説教を始めるための第一弾などではなく、まずはただ純粋に現状を観察していく上での第一歩としての報告なんです。

 

そして第二歩目、ここで既に答えが出てしまう。

冷静に眺めてみるとき、人というのは生きているんじゃなくて、生かされている。

子供は親の意思や意図を持って生を受け、親の意思や力でこの世に産み落とされる。

その後子供は自身で生きる理由など自覚することなく、意識することなく当分の間を生きていく。

そうして自分自身というものを改めて考えてみる時期に差し掛かる頃には、多くの人はその環境や将来性、自身の特徴や時代における優劣など、あらかた定まってしまっている。

産み落とされた社会におけるその人の個性や有用性のようなもの、それはその社会においてその人の価値や意義に大きく係っている。

であるならば、当人自身が自己をどのように定義付けようと、当人自身の中だけで決まる筈がないということだ。

常に自分と関わりのある人々とのつながり方や存在する社会という仮想空間の持つ性質などから逃れることはできない。

それらがあって初めてその人自身の「何故」が見えてくる以上、当人が自己の中だけで答えを見出そうとするのは不可能だ。

 

 

人は生きているんじゃない、生かされているんだ。

 

 

 

このような大きい課題を先に提示し、これから先は、そこに至る根っこや枝葉のようなものを少しづつ拾い上げていきたい。

例えば、人間関係において「認める」とか「許す」とか、そういった認識はとても重要なものであること。

その辺もきっと、生かされている(生かし-生かされ合っている)ことと大いに関係しているんだと思う。

 

 

 

当面の見切り

書きたいことはある。

人は生きているのではなく、生かされているのではないか?ということ。

時間というものはやはり、幻想なのではないか?ということ。

そのような考えに至るまでの前提となる多くのこと。

 

が、自分の中ではとてもまとまっていない。

そこでとりあえず、思いついた順に羅列して行こう。

 

そして何かしら体系的な物が見えてき次第、全体をまとめ直して行きたい。